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鉄道郵便印


  この印は、現在は廃止されましたが、鉄道郵便用日付印と言って、駅前のポストや、列車の中で投函された郵便物に押された消印で、俗に「てつゆう印」と呼ばれていた日付印です。
  現在郵便物は殆どトラックや航空機によって運ばれますが、かって鉄道花盛りの時代、郵便物の多くが鉄道によって運ばれていました。
  この印は、郵便物を運んでいた郵便車の中で使われていた日付印なのです。
  鉄道華やかなりし時代、現在の様に全国津々浦々に高速道路が建設されてはいませんでした。
郵便物は、主として列車で運ばれていたのです。
  速達郵便で大都会相互間は、航空機により運送されてはおりましたが、普通の手紙などは列車に揺られて旅をする、と言う、のどかな時代でした。
  中央局の様な大きな局では、自局で区分けし、宛先局毎の郵袋にして郵便車に積み込みますが、小さな集配局ですと、区分けせず、大雑把に分けて大きな局へ(例えば東京都と書いて有れば、東京中央局へ、)送るのです。それから、途中に有る小さな局への郵便物は、鉄道郵便局の乗務員宛の郵袋にして積み込みます。
例を挙げて説明しましょう。
  大阪市内から、東海道線沿線の小さな局、(例えば彦根を例に取りましょう、)に宛てた郵便物は、「東門上り便乗務員宛」と云う郵袋に入れて積み込みます。
そして車内では、乗務員がその袋を開けて、途中の局毎に区分をし、小さな局宛の郵袋(ここでは彦根局宛)を作ります。
列車が彦根に着きますと、乗務員は彦根局宛の郵袋を降ろし、代わりに上り方面の局宛の郵袋を受け取ります。そして受け取った郵袋の中の「乗務員宛て」を開け、区分をして行きます。
  一方、彦根局の局員は郵袋を持って駅に行きます。
そして列車の到着前に、駅内や駅前のポストを開け、「その列車に積み込んだ方が速く着く、」と考えられる郵便物だけを選り出し、持ってきた郵袋と一緒に、乗務員に渡します。
  受け取った乗務員は、車内で消印し、すぐに区分けに廻します。
列車が駅に停車する度に、この作業を繰り返す訳です。
  この時、車内で消印するのに使用する通信日付印が、ここに書いております鉄道郵便用通信日付印なのです。
では図の説明をして行きましょう。
  A欄には、「東京門司間」と云う区間名が入ります。
東海道線ですと、この他に「東京大阪間」、等も有ります。
B欄は日付けです。さてC欄ですが、ローカル線の様に距離が短く、一つの鉄道郵便局だけでカバー出来る場合は、「上」・「下」、と入ります。
  本数が往復それぞれ2本ずつ有れば、「上一」・「上二」・「下一」・「下二」、と云う様に表示されます。
所が東京門司間の様に、長距離になると、東京、名古屋、大阪、広島の4鉄道郵便局が係わります。
そうすると、便号(上一とか下四と云う字です。)の次に、各鉄道郵便局の受持区間、(東京鉄道郵便局ですと、東京浜松間。
  大阪鉄道郵便局ですと、大阪糸崎間、)が、「東・浜」「阪・糸」の様に省略されて挿入されます。
上の左側の印は、東京門司間・下り3便の、東京浜松間で。
右側は同東京門司間・上り1便の大阪糸崎間で消印された物だ、と云う事がお判りでしょう。
  ですから、東京門司間だけでも、便数が片道各5便の、上下10便×鉄道郵便局が4局ですから、計40種類存在した事になります。
しかし投函される郵便物の数がしれてますし、車内で差し出す人も少ないので、どうしても数は少なくなります。
  ローカル線の列車で、車両の1/2が客車、1/2が郵便車、と云う車両が有りましたが、これだと出し易かったのですが。
  郵便車を走らせていたのは、国鉄だけではありません。
  私鉄でも郵便車を使っていた所も有ります。
  東京伊勢崎間の東武鉄道。米原貴生川間の近江鉄道。
大阪和歌山間の南海電鉄。等です。





旭川稚内間 旭川網走間 名寄遠軽間
上 一 下 二 下 一


福島秋田間 東京塩尻間 門司佐世保間 有田佐世保間
下 二 下 二 上一鳥佐 下 一


高松宇和島間 東京南部
上 二 超特急郵便



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